2000年1─6月分

2000年1月分

 

評者: 福田 宏 (北海道大学法学部助手、国民形成過程における体操運動)

hfukuda@juris.hokudai.ac.jp http://www.hello.co.jp/~hiroshifukuda/

・ジャック・バーザン, 野島 秀勝訳. 『ダーウィン、マルクス、ヴァーグナー--- 知的遺産の批判』. 叢書ウニベルシタス(633). (法政大学出版局. 1999年).

 ヴァーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』は、怪しげな魅力を持つ作品である。明確な調を持たない旋律。果てしなく続く音の流れ。観客は「和声(ハーモニー)の底なしの海」へと溺れ、楽劇の幻想的な世界へと取り込まれていく。こうなるともう後戻りはできない。彼らは、こうした神秘的な仕掛けによって、美的宗教の信者=ヴァグネリアンとなっていくのである。

 ロマン主義的幻想に満ちた『トリスタン』。しかしながら、バーザンによれば、ヴァーグナーのこうしたオペラは、科学万能主義を体現する芸術作品なのであった。

 実のところ、『トリスタン』で語られるのは空前絶後の偉大な恋物語ではなく、自らの意志を放棄して運命に身を委ねるトリスタンとイゾルデの物語なのであった(pp.318-319)。そして、二人にとって重要なのはロマンティックな恋愛よりもむしろ生物学的な愛であった。現に、第二幕では、そういった生物学的行為が聖化され、祝祭化される。つまり、このオペラの奥底で繰り返し流れているのは、宿命論的哲学と唯物論という指導動機(ライトモチーフ)なのであった。

 作品だけではない。ヴァーグナー自身、芸術の進化に奉仕する人間であった。民族と国家の発展と共に前進する芸術は、民衆の全ての感覚に訴えかけ、彼らの現実感を再構築していく。ヴァーグナーが目標とする、人類の救済 --- あくまでドイツ人が中心である --- は、総合芸術としてのオペラによってもたらされるのであった。その意味では、進化の途上にあり、舞台を重視しなかったベートーベンの音楽は過去の遺物として破棄される運命にあった。

 もちろん、機械論的唯物論に染まっていたという意味では、ダーウィンとマルクスも同じであった。『トリスタン』が完成した1859年という年に、ダーウィンの『種の起源』とマルクスの『経済学批判』が出版されたというのは単なる偶然かもしれない。だが、その事実は、後の時代を支配することになる進化思想の確立を象徴する出来事であった。バーザンは、この点に着目し、ダーウィン・マルクス・ヴァーグナーという三人組(トリオ)を題材としながら、新しい時代精神の誕生過程を扱っている。

 ただし、この三人組は新しい価値観を生み出すほどの能力は持っていなかった。確かに、マルクスは「プルードン主義のロバども」を軽蔑し、真の科学的武器となりうる『資本論』の新しさを強調したかもしれない(pp.442-443)。だが、「ロバども」や他の誰かが絶え間なく煽動活動を行い、武装蜂起をしていたおかげで、マルクスの主張が受容される土壌が出来上がっていたのである。そうした「名も知られぬ呪われた先駆者」に対してマルクスが与えたのは、感謝の意ではなく侮蔑の眼差しだけであった。ヴァーグナーにしても、ベルリオーズの標題音楽をこき下ろす一方で、『ロミオとジュリエット』第二部の冒頭をちゃっかり『トリスタン』前奏曲に転用していたのであった(pp.327-328)。もっとひどいのはダーウィンであろう。観察することは得意でも、理論的考察はまるっきり駄目であった彼は、自著『種の起源』において何が他人からの借用で、何が独自の理論なのかがよく分かっていなかった(p.124)。結局のところ、彼らは新しい価値観を伝える優れたメッセンジャーであったとは言えても、その創造主ではなかったのである。

 また、彼らは自分の主張したことが一人歩きを始め、自分の手を離れて行くのを指を加えて見守る羽目にも陥った。『種の起源』の初版では「進化」という言葉は使われていなかったにもかかわらず(p.63)、「ダーウィンの進化論」という理論が成立し、ダーウィン自身が慌ててそれを追いかけていったのであった。晩年のマルクスが、私はマルクス主義者ではないと嘆いたのは有名な話である。他方、権力の絶頂にあったヴァーグナーは、バイロイト音楽祭が自分の意図から逸脱し、無意味なものと化してしまったと嘆いていた(p.437)。彼ら三人は、歴史の新しい流れを決定する支配者ではなく、時代精神の変化を告知する道化にすぎなかったのである。

 現在の冷戦後の世界においては、マルクスのインパクトは明らかに低下し、生物学においては「進化」の存在自体に疑問符が付されている。が、社会における進化思想自体はまだ力を失っていない。本書の初版が出された1941年においても、それから60年ほど経った現在においても、我々は依然として機械論的唯物論という19世紀の幽霊に支配されているのである。バーザンによれば、我々は、進化論によって非合理的な観念から自らを解放したつもりになっていながら、実際には、物質という新しい信仰対象に縛られてしまったのであった(pp.476-477)。しかも、科学においては真理は一つとされる為に、なおのこと始末が悪い。なぜなら、科学に自分のたちの運命を委ねた結果、我々の世界は宿命論的なものへと変化してしまうからである。この絶対神としての宿命に逆らおうとする行為は、容易に暴力的な対立へと発展してしまうであろう。特に、本書が第二次世界大戦中に出版されたことを考えると、「[このまま行けば]間違いなく破滅する」というバーザンの警告は、極めて真剣味を帯びたものであったことが理解できる。果たして、20世紀末の今では、この「破滅」の危険をどれぐらい回避できているのだろうか?

 

田中拓道(北海道大学大学院法学研究科博士課程、フランス政治思想史、takjit@juris.hokudai.ac.jp

・Ceri Crossley, French Historians and Romanticism : Thierry, Guizot, the Saint-Simonians, Quinet, Michelet, London and New York : Routledge, 1993.

 しばしばフランスの研究書に較べ、英米圏のフランス史研究書は、資料の渉猟という点では遅れをとるものの、分析枠組みの提示、研究史上の位置づけといった点で優れている、と言われる。本書もどちらかと言えばその一例に当たる。ここでは19世紀前半のフランスにおいて頻用されるようになる「歴史」概念の意味が、1815年から48年までの歴史家の思想において辿られる。研究蓄積の少ないこの時期の思想状況を知る上でも参考になる。

 18世紀啓蒙主義者や、トラシ、ドヌー、カバニス、ビシャらのイデオローグに対して、19世紀初頭の思想においては、感覚論からスピリチュアリズムへ、自然権や人間の本性概念から社会関係に位置づけられた個人観へ、という変化が見られる。ロワイエ・コラール、コンスタンなどにすでに見られるこの傾向において、「歴史」概念が重要な思想的意味を有することになる。さらに産業化への対応(デュノワイエ、サン・シモン、ティエリー)、新しい社会的紐帯の探求(クザン)という方向の延長に、30年世代に独自の歴史概念が展開されることになる。

 この世代は、一方で個人主義の価値を認めつつ、他方で個人を成り立たせる社会の全体性、歴史の連続性を強調する。彼らおいて「歴史」は、宗教に代わる「諸価値の源泉」であり、ロマン主義との密接な関わりを持った概念である。本書ではこのような枠組みから、ティエリーの「征服と闘争」をキーとした歴史観、ギゾーの「文明の発展」としての歴史観、サン・シモンおよびサン・シモン主義者の「一般化」を方法的特徴とした歴史観、キネの「ユマニテの発展」としての宗教的歴史観、ミシュレの「人民の意思の展開」としての歴史観、の各々が検討される。

 本書の利点は上記のように、18世紀、19世紀初頭、20年世代のぞれぞれと異なる30年世代の「歴史」概念の特徴を考察する枠組みを、提示している点にある。同分野の研究書であるPaul Benichou, Le temps des prophetes : doctrines de l'age romantique, Gallimard, 1977. が、例えばスピリテュアリズムやエクレクティシズムと30年代以降のミスティシズム、ロマン主義的傾向を同一視し、Jean Walch, Les Maitres de l'histoire 1815-1850, Slatkine, 1986. は各歴史家の歴史像の並置にとどまるのと較べると、この点では優れた知見をもたらしていると言える。ただし、この時期のロマン主義的な「歴史」概念が、当時いかなる理論的合理性を持って生まれ、広範に用いられたのかについては、まだかなり検討の余地を残しているように思われる。本書の検討をさらに進めるとすれば、このような方向性においてであろう。

 

2000年2月分

 

評者: 福田 宏 (北海道大学法学部助手、国民形成過程における体操運動)

hfukuda@juris.hokudai.ac.jp   http://www.hello.co.jp/~hiroshifukuda/

 

・アンソニー・ギデンズ著, 松尾 精文, 小幡 正敏訳.『国民国家と暴力』. (而立書房. 1999年)

 20世紀の世界は、血なまぐさく、恐怖に満ちている(p.11)。だが、マルクスやデュルケム、その他の理論家たちは近現代国家における暴力の問題を見落としてしまっている(pp.33-38)。例えば、マルクスによれば、階級支配の道具である国家が消滅すれば、それと共に暴力も消え去るのであった。分業の進展によって社会の有機的連帯が進展するというデュルケムの理論においては、個々人の結びつきが国境を越えて拡大するために戦争を起こす理由もなくなってしまうのであった。しかし、である。暴力に満ちたこの百年間を振り返れば、そうした楽観的な「近代化論」が片手落ちであったことは否定できまい。本書は、こうした暴力の問題を真正面から捉え、その変化を資本主義や工業主義の発達、権力による管理・監視の強化、国民国家の誕生といった諸要素との絡みで把握しようとする極めて野心的な著作である。

 ギデンズによれば、国民国家は西ヨーロッパで生じた偶然の産物であった(pp.102-144)。三十年戦争の悲惨さに懲りたヨーロッパ諸国は、1648年のウェストファリア会議において、お互いを対等な国家として認めあい、「力の均衡」という全く新しい原理にしたがって「国家間関係」を規定することに同意したのであった。他方、技術の発達によって高度な管理と多額の費用を必要とするようになった軍隊が専ら国家によって運営されるようになり、国家と国家の間には明確な国境線が引かれ、お互いの領土がしっかりと確定されるようにもなった。ここに、国民国家 --- 暴力手段を独占する国家 --- の原型が生まれる。

 これに追い打ちをかけたのが資本主義の発生であった(pp.145-199)。貨幣経済に基づいた商品の流通が円滑に行われるためには、国家が貨幣を発行するだけの信頼性を持ち、国内秩序を平定させるだけの力を持っていることが必要となる。言い換えれば、資本主義社会は境界画定された実態、すなわち安定した国民国家を志向することとなる。さらには、資本主義における利潤の追求が、より効率的な商品の生産 --- 工業主義へとつながっていく。ただし、ギデンズのいう工業主義はに工場制生産の機械化だけでなく、それに付随する職場の中央集権化も含意されている。資本主義と工業主義が徹底した社会においては、労働者は管理され、労働力という商品を売るだけの存在となってしまうのである。

 権力者による管理や監視を一層効率の良いものにしたのは、19世紀後半におけるコミュニケーション手段の発達であった(pp.200-222)。鉄道、郵便、電信、電話、印刷技術、そして国内時間の統一によって初めて、国家レベルでの国民の管理が可能となったのである。フーコーが述べたように、国内の秩序を保つために「逸脱」の概念が発明され、監獄や精神病院に隔離された「逸脱者」が「矯正」されたうえで社会に「復帰」するシステムが出来上がったのであった。だが、管理を生み出す契機となったのは工業主義だけではない。ギデンズによれば、工業主義よりもずっと以前に軍隊において「規律」の問題が生じていたし、19世紀後半以降にはポリアーキー(ここではダールのいう自由民主主義的なものよりも広い意味での民主制と解されている)が国家による管理を強化する役割を果たしたのであった。

 広い意味での民主主義の進展とシティズンシップの権利 --- 市民的権利(自由)、政治的権利(参加)、社会的権利(福祉) --- の拡大は、一義的には市民の国家からの自立を意味している。が、実際には、ポリアーキーの拡大は、統治者と被統治者との相互作用の増大をもたらし、国家による国民の管理を押し進める効果を持っていたのであった(pp.228-241)。一番分かりやすいのは、社会的権利の問題であろう。社会保障の充実は、市民の権利拡大を意味する一方で、収入状況、疾病の有無、家族構成といった細々とした点を逐一管理される側面を持っているのだから。

 西ヨーロッパで誕生した国民国家は、第一次世界大戦後、ウィルソンの理想主義と共に全世界へと普及していく(pp.292-335)。現在では国連を始めとする様々な国際組織が活躍し、国家の主権に何らかの形で制限を加えているものの、国民国家の基盤は今のところ弱まってはいない。国際舞台においては、アクターとなれる第一の存在はやはり国家であり、国民国家の体を成していない国家でさえ、国民国家の振りをしてステージに上がろうとしているのである。

 モダニティー(近現代)を彩る五つの要素 --- 国民国家、資本主義、工業主義、管理・監視、暴力 --- は、最初は偶然の産物として登場したのかもしれない。しかし、これらの要素は結果としてお互いに結びつき、お互いを強化しながら発展してしまったのであった。しかも、 --- ギデンズは半ば皮肉を込めて主張しているが --- 我々はマルクスのおかげで資本主義を「弁証法的に解決する」理論を持っているのに対し、軍事力の漸進的蓄積に対しては「弁証法的」に対応する術を持っていないのである(p.372)。我々は、増大する暴力それ自体を単独のものとして扱うのではなく、近現代を特徴づける一要素としてそれを位置づけ、モダニティー全体に関わる問題として対処しなければならない。ギデンズによって提示されたこの問題は、幸か不幸か21世紀にも引き継がれる荷の重い宿題となりそうである。

 

岡崎晴輝 1968年生 政治理論専攻 学術博士(国際基督教大学) 放送大学非常勤講師 aktiv@aqua.ocn.ne.jp  http://www1.ocn.ne.jp/~aktiv/

 

・大川正彦『正義』(岩波書店、1999年)

 本書は「正義論」=ロールズの正義論とは、相当に趣が異なっている。そのことに違和感を覚える読者も多いかもしれない。しかし、趣が異なっていることは、本書の意図を考えれば、不思議なことではない。著者の意図は、「正義論」とは別の正義論を提示することにあるのではなく、「正義論」における不正義(特に「あいだ」における不正義、cf. p. v)を告発することにあるのであろうから。個人的な希望をいえば、もう少しロールズの正義論を正面から批判してもよかったのではないのか。さらに言えば、もう少し具体的事例を交えて議論してもよかったのではないのか(具体的事例が念頭にあることは滲みでている)。しかし、重要な論点を提起していることに変わりない。以下、章ごとに簡単に整理していくことにしたい。

 著者は・において、フレザー・ヤング論争を手がかりにしつつ、「再分配」や「承認」を中心とした「正義論」が、三つのことを「隠蔽」しているとしている。第一に、宗教改革の教訓は「残酷さを回避すること」なのではないのか。第二に、正義論では、不正義を被った者の声がつかみ損なわれているのではないのか。そして第三に、重要なのは「ただたんに生きることを積極的に擁護すること」ではないのか。著者は、こうした問題を、・の三つの章で順次考察している。

 ・の第1章は、シュクラーの「恐怖の自由主義」を手がかりに、「希望の党派」に属するロックの「自然権の自由主義」やミルの「人格的発展の自由主義」を「再検討」している。キーワードは「残酷さ」である(cf. 14頁)。「希望の党派」は「残酷さ」を「野放図に見放」してきたのではないのだろうか(26頁)。それどころか、「自然権とは何か、人格的発展とは何かを解することのないと決めつけられた人々」(=「弱き者」?)に「残酷さ」をもたらしてきたのではないのだろうか(32頁)。これにたいして「記憶の党派」に属する「恐怖の自由主義」は、「残酷さをまっさきに回避されるべき悪徳」=「共通悪」とする。そして、そうした「残酷さ」の「下位の悪徳を携えて生きていかざるをえないことに耐えられないければならない」(33頁)という。たとえば、人間嫌いという悪徳、不誠実や裏切り、偽善という悪徳。「人間の有限性および可謬性を受容し、かつ共に・互いに・現に生き延びていこうとするのを積極的に是認する心性」(39頁)。──幾つかの疑問がある。第一に、ロックやミルの自由主義に「残酷さ」の責任を負わせることはできるのであろうか。「残酷さ」をもたらしてきたのは、別の「希望の党派」なのではないのだろうか。第二に、「残酷さ」を避けるために、ある種の「悪徳」を容認しなければならないことはわかるにしても、避けることのできる悪徳までも容認することになりはしないだろうか。通常の自由主義におけるように、「残酷さ」を重要な悪徳の一つに位置づけたほうが適切なのではないのだろうか。

 第2章は、シュクラーの『不正義の相貌』(1990年)に「耳を傾け」つつ、「正義の通常モデル」が「不正義」に「ふさわしい場所を与え」ていないのではないか、と問題提起している(ただし「正義の通常モデル」を退けているわけではない)。それでは、どうすれば「不正義を真剣に受けとめる」ことができるのであろうか。「不正義を告発する声」を「聴き届ける」ことである。犠牲者には「聴き届けられる権利」がある。「聴き届ける努力、相手の言葉・言葉づかいにそった聴き届け、聞き届ける側の翻訳の仕事」(56頁)。その際、自分の「不正」と「不運」の区別を前提にして、犠牲者が「不正」であると告発しているものいは「不運」にすぎない、と決めつけてはならない。「不正と不運との区別の引き直し、学び直し」(52頁)が必要である。また、不正義を告発する声の「わからなさ・わかりにくさ」を、彼(女)たちの「言語能力」のせいにしてはならない。そうしたのでは、「不正義感覚を表出する動きは萎縮」してしまうであろう。さらには、犠牲者がそもそも声をあげることさえできない場合もある。犠牲者が不正は不運のせいであるとみなしている場合、声をあげることが二次的苦痛をもたらす場合、そして犠牲者がすでに存在していない場合である。──極めて重要な問題提起であるように思われる。しかし、二つの問題を提起しておきたい。第一に、第一章と第二章との整合性の問題である。第一章では、どちらかというと保守的含意になり、第二章は、不正義を改革するという改革志向になるのではないのだろうか。この両者の関係は矛盾しはしないのか。第二に、どこまで「聴く」ならば、弁明できるのであろうか。聴くといっても、時間的制約を考えるならば、いつまでも聴いていられるわけではない。この問題をどのように考えるのであろうか。

 第3章。著者は「よく生きるということ」を「身体的なよさ」として、しかも<あいだ>での出来事とし捉えることから始め、イグナティエフが「権利言語」では捉えられない「ニーズ言語」の次元に光を当てたことを紹介する。次に、ウォールドロンによるイグナティエフへの応答を紹介する。一つは「能動的介入としての慈善というモデル」から「受動的な差し控えとしての慈善というモデル」へと慈善イメージを転換すること。もう一つは、ホームレスも「ニードある存在」であって、その「基礎的ニーズの充足と深くかかわっている自由」が「分かち合わ」れなければならいこと。そして最後に、ミノウを手がかりに「聞き届けられる権利」ということを述べている。──正義論が「魂の救済」について語らなくても批判することはできないように、「身体的なよさ」について語らなくても批判することはできないのではないか。このことは、そもそも「正義論」とは何か、という根本的疑問を引き起こさざるをえない。そもそも「正義論」の眼目は、「よく生きる」ことの解釈権を各人に委ねることにあったのではないのか。そうであるとするならば、正義論における「よく生きること」を批判するのは、的外れのような気もする。

 終章は「翻訳としての正義」(ホワイト)という概念を提示しているが、基本的には、これまでの議論を補足したものであろう。──それにしても、・の末尾(10頁)に出した論点、そして・の表題になっている論点、「分かち合い、分かり合い、その在り難さ・在りえなさ」とは、いったい、いかなることなのであろうか(この4つの言葉や「、」や「・」はどのように「翻訳」することができるのであろうか)。

 重要な論点を出しているものの、全体としては、漠然とした印象を拭いきれない。それは、本書が「正義論」と正面から対峙していないことに起因しているのではないのか。「正義論は・してこなかったのではないのか」といった問題提起で止まっていることに起因しているのではないのか。しかし、政治思想史に解消されない政治理論が出てきたこと、しかも単なる「紹介」を超えた政治理論ができてきたことは、喜ばしい。ただ、私の考えでは、政治理論にとって決定的に重要なのは、独自の(先行研究を踏まえた)概念とその定義、そしてそうした概念の体系を創造することであるように思われる。この点、著者はどのように考えるのであろうか。

 

2000年3月分

 

評者: 福田 宏 (北海道大学法学部助手、国民形成過程における体操運動)

hfukuda@juris.hokudai.ac.jp http://www.hello.co.jp/~hiroshifukuda/

・リチャード・セネット著, 北川 克彦, 高階 悟訳.『公共性の喪失』. (晶文社. 1991年)

 ニューヨークで第二次世界大戦後に建てられたビルの一つに入ってみたとしよう(p.28f.)。その摩天楼は可視性の美学に基づいて設計されている。全面ガラス張りの壁は、建物の内と外の区別をなくしているかのようだ。しかし、ビルの一階に設けられたホールのベンチに腰を下ろしていると、あたかも自分が展示されているかのような、非常に落ち着かない気持ちになってしまう。そこは公共の空間でありながら、実際には二階以降の各オフィスへと通じるコンコースとしてしか機能していないためである。公共空間の存在が提示されながらも、実際にはその公共性は生きたものではない。20世紀における建築。それは、現在における公共空間の死を象徴しているのだ。

 セネットは、こうした「公共性の喪失」がどのようにして生じたのかを歴史的な経緯を基に検証している。

 近代的な意味での公共性が成立したのは、18世紀半ば、すなわち都市が急激な発展を始めた時であった。広場、公園、劇場といったものが公的な空間として機能するようになったのは、まさに見知らぬ者たちが交わりあう都市においてであった。が、当時においては、見知らぬ者を全く自分に関係ない人間として放置するようなことはなかった。交友関係を結ぶことはないにしても、見知らぬ者と自分とがいかなる関係にあるのかを意味づけようとする強い欲求がそこに働いていたのである(p.93)。その結果、18世紀の都市においては、公的な場における服装や立ち居振る舞いを見れば、その人がどのような人間であるかがすぐに分かる仕組みが出来上がっていた。18世紀の中頃より、パリとロンドンでは、社交活動の一つとして街を歩くことが今までになかった重要性を獲得し、人々はこの時代に整備されるようになった公園という場所を歩き回った(pp.126-127)。そこですれ違う人々との一瞬の交流を通して、彼らは相手の地位を認識し、かつ自分の地位を認識したのであった。この時期においては、人々はどのような服装をし、どのように振る舞うべきかを心得、自分の役割を忠実に演じていたのである。1749年のロンドンにおいて、舞台と街が「文字通りに」混合した社会になったという指摘がなされたが、それは全く正しい認識であった(p.99)。1750年代の演劇においては、観客が俳優に混じって舞台を練り歩き、友人に手を振るといった光景が日常的に見られたのである(pp.113-114)。

 1852年、パリに新手の小売店が登場した(p.203)。この店に入った客は、買わねばならないという義務感なしに自由に商品を見て回ることができたし、それぞれの商品に付けられた値札通りの値段でモノを買うことができたのであった。その方式は、値切る値切らないという一連の儀式を廃し、買い手と売り手によって演じられる演劇的要素を取り除いたのであった。パブリックな場で買い物をするという行為は、個人的かつ受動的な経験となったのである。その最終的な帰結が百貨店という形態であった。言うまでもなくそれは、工場によって大量生産された商品を大量に販売するという資本主義的発展の帰結でもあった。

 19世紀前半に生きたバルザックは、公的な場における人々の受動性を暗示している。彼の小説においては、18世紀と同様、登場人物は服装によって自らの位置づけを表現しているものの、かなり趣が異なっている。19世紀の人々は、公的な場においては自分の個性を隠し、自らの性格が不本意に露見することを恐れているのである(p.227)。それは、神々が後退し、世俗的な世界観が登場したことの帰結であった。人間は、神の助けなくして公的な場に登場し、個性を発揮するチャンスを与えられた瞬間、全く一人だけで舞台に上がることに不安を感じ、個性を隠す方向に逃げてしまったのである。この点に関するセネットの説明はやや不十分な気もしないではないが(pp.214-219)、19世紀に人々が工場で生産された既製服を着るようになり、地味なファッションで身を包むようになったのは確かであった。ヴィクトリア朝時代のシャーロック・ホームズは、そうした時代に活躍した --- もちろん架空の --- 人物である。彼は、「袖や親指の爪」といった細部が暗示していることから依頼人の個性を明らかにし、その人をびっくりさせると同時に、個性が暴露されることへの恐れを抱かせるのであった。また、個々の自発的な欲求を抑えることによって新たな病理が発生し、それに対応する精神分析学という治療法が19世紀末に登場したというのも偶然ではあるまい。

 人々は、公的な場において自らの個性を抑圧する代わりに、劇場やコンサートにおける個性の解放を楽しむようになった。その点は、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストであったフランツ・リストの有名な言葉、「コンサートは --- 私自身だ」に具体化されている(p.281)。観客とパフォーマーは明確に区別されるようになり、観客はパフォーマーによって演じられる個性を黙って見聞きするだけの存在となった。1850年代までには「まともな」観客とは、静かに座席に座っている人物のことを指すようになり、1870年代までには、交響曲の楽章の切れ目で拍手する人物は「マナーを知らない」客と見なされるようになったのであった(pp.290-291)。リヒャルト・ヴァーグナーが、客席の照明を落として舞台に観客の注意を集中させるようにしたのも、そうした変化の表れと言えよう。また、観客は、もはや自分の力でパフォーマーの個性を判断する力も失い、この時期に書かれるようになった新聞の音楽批評やプログラムの解説に依存するようにもなる。結果として、19世紀においては、公的領域への個性の侵入が強く求められるようになったと言えるだろう。だが、それは観客自身の個性ではなく、公的問題に解答を示してくれる卓越した個性でなければならなかった。オーケストラにおいてすべてを統轄する指揮者という個性が誕生し、その役割が増大し始めたのと平行して、政治の世界においても優れた指導者が望まれるようになったのであった(p.315)。

 公的領域への個性の侵入は、ナルシシズムと破壊的ゲマインシャフトへの道を開くことにもなる(p.309)。観客としての大衆は、自らの個性を抑えるという禁欲主義を貫きながら、カリスマ的指導者の個性へと陶酔していく。カザルスを偉大な人間として認知することはチェロ奏者としての彼の芸術を汚すものではない。だが、政治家の個性に惹かれることは、大衆の関心を政治の本質から逸らし、政治の中味を「減じる」ことにつながっている(pp.399-400)。ニクソンは有名な「チェッカーズ演説」(1952年)において、数百万のテレビ視聴者の前で涙を流して見せ、いかに飼い犬のチェッカーズを愛しているかを語ったのであった(pp.389-390)。だが、それは他方で、ニクソンの政治的スキャンダルを忘れさせ、大衆の目を彼の平凡な日常生活に釘付けにする効果を生み出したのである。

 結局のところ、個性に飢えた空虚な大衆社会を生み出したのは、資本主義的発展の帰結なのかもしれない。だが、都市を設計し直して、お互いの顔が見える小規模なコミュニティを復活させようとする試みは --- セネットによれば --- 明らかに間違っている(p.408f.)。確かに、親しい人々によって構成されたコミュニティの中で、人々は「本来の自分」を取り戻し、人間らしい生活に「復帰」できるように思われる。だが、小さな人間集団においても、個々人の自信のなさが完全に解消されるわけではない。逆に、ゲゼルシャフトでなくゲマインシャフトを求めようとする衝動は共同体の一員であり続けたいという強迫観念を生み出し、コミュニティ内における相互監視の強化、コミュニティの外に対する過激な排除をもたらしているのである。破壊的ゲマインシャフト、人類学の用語で言えば「擬似種形成」への危険がここに存在しているのだ(p.428)。

 自信を喪失した人々は、現在、親密さにあふれた暖かな私的領域へと逃避している。人々が公的領域に関心を持つのは、それが個性を持つ時だけである。人々は政治家の個性を信頼して投票し、空虚な公共空間を親密さで満たしてもらえる日を待ち望んでいる。だが、高度に発展した資本主義社会に見合う大規模なコミュニティの実現は幻想でしかない(p.470)。にもかかわらず、人々が公的領域への個性の侵入を許してしまったために、彼らは権力の現実について理解できなくなり、現状の問題が放置されてしまったのであった。今、我々が思い出すべきは、人々は未知のものと出会う過程を通じてのみ成長するという点であろう。それは、見知らぬ者の集まりとして都市を再評価することに、ある意味では、18世紀における都市の有り様を復活させることにもつながっている。

 以上が本書の内容である。セネットの出した結論が正しいかどうかはさておき、私は彼の用いた分析手法に大いなる親近感を覚えた。セネットのやり方は、いくぶん、精神療法の色彩を帯びたものであり、当然のことながら、原因がAで結果がBといったような単純なものではない(cf. p.184)。「治療」のある段階で、原因はこれだと簡単に納得してしまったとすれば、それは分析者の見方を固定させてしまうことになるだろう。そもそも、分析者自体、社会の中の一存在である。ある説明によって分析者が納得した時点で、分析者が変化し、社会の見え方も変わっていくはずである。そうなれば、社会の変容を説明する諸要因の束をほぐし、もう一度織り直す必要に迫られることであろう。たとえ、最終的に織り合わされた束が最初に試みられた説明と同一のものになったとしても、それは異なった意味を持って分析者に語りかけて来るはずである。

 自分の求めていたものにピタッとはまる本に出会うというのは幸せな経験であると同時に、不幸な経験でもある。私自身の研究上の悩みは本書によって大いに軽減されたが、それはある一方で、思考を停止してしまうという落とし穴にはまることをも意味している。セネットの提示した魅力的な「精神療法」に対し私自身の「方式」をこれから考えていかねばなるまい。

2000年4月16日記

[付記]99年度に読んだものの中では最良の本であった。

 

2000年4月分

 

越 充則(地方公務員 koshi@rose.ocn.ne.jp

・ヴァンダナ・シヴァ『緑の革命とその暴力』日本経済評論社

 私が中学生のとき(80年代前半ごろ)は、社会科の教科書に「緑の革命による食糧増産が食糧問題を解決し、、、」と書かれていたように記憶している。日本政府がアメリカを気遣い文部省が意図的に指導したのか、当時、教科書執筆者(研究者)の間の認識だったのかはわからないが、本書は、その後徐々に明らかにされた緑の革命の結末を現地調査を元に紹介したものである。

 ただ本書は、繰り返しも多く、論証の裏としてデータを示すべきと思われる箇所に参照資料がないところもあるものの、実際に緑の革命のモデル地区とされたインド、パンジャブ州の現場からの地道なフィールド・ノートと言えるだろう。概観すると、従来からの農業は、輪作、混合作で穀物や豆類を組合せ、その有機的自然の再生力で土地の劣化を防いでいた。しかし、緑の革命と云われた「奇跡の種子」(多収量品種)は、収量とともに大量の水、肥料、農薬を必要とし、また単一作と遺伝的な弱さから品種の交換も頻繁にしなければならない。このため大規模なダム開発と灌漑を整備し、種子、化学肥料、農薬を西側資本に依存するようになり、しかもその結果として、土壌の微量元素不足、灌漑、地下水の汲み上げによる湛水、地下水位の低下、塩類集積による農地の荒廃を招き、農民が重債務に陥ったのである。本書は、これを、自然の再生力を生かした持続可能な循環型農業を捨て、外部からの投下による単線的農業に走った結果としている。

 緑の革命は、当初確かに収量増があり成功が伝えられたが、しかしこれにも疑問があるという。食糧生産は、輪作、混合作で穀物や豆類を合わせたトータルでのその土地の生産性を見るべきである。多収量品種の単一作付けでは人が生きていくのに必要な他の作物を作らないこと、灌漑設備、農薬、化学肥料など投下される資源が膨大であること、土地の劣化を招き持続不可能な農業であることなど外部化されているコストを考え合わせれば、小麦の反収比較だけで食糧自体の生産性を比べることはできない。

 また、米や麦を集中的に栽培した結果、地元農民が食べる食糧の栄養バランスが崩れ、特にビタミンAの不足による子供の失明が増えたという。これを、持続可能な農業をするという大地のバランスはまた、人間自身のバランスそのものでもあると言うことはできまいか。

 こうした現状を本書は、理論レベルでは、科学技術の評価は、政治、社会と科学の連関性を捉えてなされるべきということ、科学を中立したものとして扱うのではなく、科学がもたらす社会的、或いは政治的影響を含めて科学の評価をするべきであるとしている。インド、パンジャブ州の緑の革命は、科学のもたらす恵み、或いは暴力の評価があってこそ科学自身の評価もまたできる、ということのいい実証例なのである。

 最後に、緑の革命による社会変動と政治の関係に触れておく。在来種の多様な作付けをして循環型農業をしていたときは、著者によれば、共同体は閉鎖型の協力による社会であった。ところが、多収量品種による単一作によって市場と強引に結びつけられ、水の奪い合いが起き、アメリカ資本に依存するようになったことで、共同体は外に開かれた競争の社会になった。競争により急速に商業化し、社会関係が商業基準で計られるようになり同質化が進んだ。これを中央集権と「政治」が浸透したという。実際、パンジャブ危機といわれたものは、たまたまシーク教徒が多かったため宗教対立として見られたが、ことの本質は緑の革命による水の奪い合い、農民の相対的貧困化に端を発する社会変動が原因だったという。

 ここで興味深いのは、競争、或いは奪い合いの手段として「選挙政治」が持ち込まれた、としていることである。選挙政治、いわゆる参加の論理としての民主主義が、同質化の論理とパラレルに描かれ、人々の生活、或いは文化を破壊し暴力を持ち込んでいるものとされているのである。アメリカが世界的価値としているものが、必ず人々を豊かにするのではないことが、地道な調査から論証されたものと見ることができるだろう。ここに、技術とものと価値基準を容赦なく押しつけ、自国の利益のために文化破壊も平気でしていくアメリカの世界戦略の1つの典型例を見ることができるのである。

 自然と調和を保っていた伝統的な農業を今一度見直すべきという結論が、自ずと導かれるだろう。

 

評者: 福田 宏 (北海道大学法学部助手、国民形成過程における体操運動)

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・阿部 安成, 小関 隆, 見市 雅俊, 光永 雅明, 森村 敏己 編『記憶のかたち --- コメモレイションの文化史』 (柏書房. 1999年)

・小関 隆, 松浦 京子, 森本 真美, 光永 雅明, 井野瀬 久美恵 著『世紀転換期イギリスの人びと --- アソシエイションとシティズンシップ』(人文書院. 2000年)

 記憶とは、過去を認識しようとする営みであり、年代記のように、過去の出来事が順序よく配列されたようなものではない。特定の出来事が個人の認識に沿う形で記憶される一方、膨大な量の出来事が忘却されていくのである。また、個人が様々な集団の中で生き、集団の中でアイデンティティーを確保している以上、その記憶は集団の記憶、すなわち「公共の記憶」と無関係ではいられないであろう。歴史学とは、その「公共の記憶」を「学術的」な方法によって権威付けしようとする営みである。歴史学は、「客観的」な方法によって過去の「真実」を拾い出し、特定の集団に存在保障を与える企てに加担してきたのであった。その最たるものが、ネイションという集団の存在を正当化するナショナル・ヒストリー(国民の歴史)であったことは言うまでもない。

 その点では、近年、歴史研究者の間で一種の流行となっている記憶に対する問いは、最近の「ナショナル・ヒストリーを越える」試みとも密接に関わりを持っていると思われる。ここでは、この「脱国民史観」の観点から、二冊の本についてコメントを加えてみることにしよう。

 まず、『記憶のかたち』は、コメモレイション(記念祭、祝典、commemoration)という形で表れる記憶に着目した論文集である。阿部論文では、1909年に行われた横浜開港50年祭、光永論文では、19・20世紀転換期のロンドンで急増した銅像群、見市論文では、1605年から400年近くに渡って行われているイギリスの火祭り、「ガイ・フォークスの夜」に焦点が当てられ、その後、四名の論者がそれらの具体的な事例を踏まえつつ、記憶のあり方を問うことの意味を論じている。

 例えば、森村は「国民化」への抵抗の可能性を記憶の問題を通じて考えようとしている(pp.235f.)。むろん、それはナショナルな記憶に他の共同体の記憶が対抗する、という単純な図式ではない。阿部論文が指摘するように、横浜の開港と近代日本の発展が結びつけられることによって日本人であることと横浜市民であることが連動する場合もあるし、フランス革命に対抗して「フランス国民」に同化することを拒否したヴァンデ地方のケースにおいても、実は、革命政府に抵抗することによって初めてヴァンデ地方というローカルな一体性が獲得されたのであった。また、ナショナルな記憶にしても他集団の記憶にしても、それを受容する民衆の側で様々な「ずれ」や「読み替え」が生じている点も考慮しなければなるまい。19・20世紀転換期の大衆化の時代には、かつては顧慮されなかった民衆の記憶が公共の記憶の一部に組み込まれるようになったが(p.15)、小関が示唆しているように、その組み込まれ方は一様ではなかったし、公共の記憶にしても、そのすべてがナショナル・ヒストリーに収斂するものではなかったのである。

 次に挙げる『世紀転換期イギリスの人びと』(五本の論文とそれらを概観する序章から構成されている)は、任意団体(アソシエイション)の活動に焦点を当て、当時の人びとが抱いていたリスペクタブル(respectable)なシティズン、すなわち「良き市民」への思いを分析したものである。その点では、本書は記憶やナショナル・ヒストリーの問題を正面から扱った文献ではないが、アソシエイションが公共の記憶を生産し、それをメンバーに提供する機能を少なからず果たしていたことを考えれば、この本を「記憶の担い手」の問題として論じることも無意味ではあるまい。

 本書において興味深かったのは、中流階級、労働者、そして女性による様々なアソシエイションの中で、「シティズンシップ」という言葉が重要視され、メンバーに対して「良きシティズン」であることが期待されたという点である。もちろん、団体によってシティズンシップの意味づけは異なっていたのであるが、そこで主張される「良きシティズン」が多かれ少なかれ「良きイギリス人=国民」のイメージとオーヴァーラップしていたことは確かであった。

 とすれば、19世紀末にイングランド人中心のいわゆる人種的アングロ・サクソニズムが台頭した際、イングランド人が「イギリスのシティズン」になることと、スコットランド人が「イギリスのシティズン」になることの間にはある種の溝が生じたはずである(p.26)。だが、小関のこうした指摘は、本書の中では詳しく検討されていない。無い物ねだりを承知のうえであるが、この論文集がイギリス社会(8頁の定義によれば、この言葉はイングランド、スコットランド、ウェイルズを含むものとされている)の検討を目的としている以上、そこにスコットランド人やウェイルズ人にとってのアソシエイションとシティズンについての論考が含められていないのが残念であった。

 ただし、アフリカ協会設立の立役者であるアリス・グリーンを扱った井野瀬論文は示唆的であった。アングロ・アイリッシュであったグリーンは、独自の文化を持ちながらも白人によるさまざまな「搾取」に苦しむアフリカの姿に文芸復興のなかにネイションの誇りを取り戻そうとしていたアイルランドの姿を重ね合わせ、最終的には「アイルランド国民の物語」を語り始めたのであった(pp.309-311)。もちろん、井野瀬論文の主眼は、グリーンがアイルランド・ナショナリズムに傾倒していく過程には置かれていないため、この点だけを取り上げるのは公平ではないのであるが。

 もう一点、気になったのは、ネイションと国家との関係である。例えば、松浦論文では、労働者にとってのシティズンシップの源泉が、国家というよりもむしろ地域社会や労働者組織に求められていた、という表現がなされている(p.153)。ここで見られるように、本書ではネイションと国家を厳密に区別する見方が全体として希薄なように思われる。ネイション・ステートという言葉、すなわちネイションと国家を同一視する見方が一般的になるのは戦間期であったことを考えると、この点には注意が必要であろう。『記憶のかたち』と同様、『戦間期イギリスの人びと』も基本的にはナショナル・ヒストリーに回収されない歴史を目指すのであれば --- 少なくとも評者にはそのように思われる --- 、スコットランドやウェイルズといったネイションそのものの重層性だけでなく、ネイションと国家との区別にも敏感になっておくべきであろう。

 近年では、「ナショナル・ヒストリーを越える」試みと同時に、自由主義史観に代表されるようなナショナル・ヒストリーに固執する試みも盛んである。いわゆる「国民の歴史」に見いだされる間違いを指摘することは簡単であるが、重要なのはその点ではなく、そうしたナショナル・ヒストリーへの回帰がどうして止まないのかを問うことであろう。「脱国民史観」の目的は、国民史が創られたものであるという「事実」を指摘し、他の共同体からの歴史観を提示することによって国民史を相対化することに留まらない。何故なら、近代歴史学そのものが、ネイションを頂点とする「世俗的」共同体に存在保障を提供するために生み出されたものである以上、「脱国民史」への試みは、近代歴史学そのものを越える試みにつながっているからである。国民史を相対化した上で、我々はどこに向かうのか。その点を今の歴史学は問わねばならないであろう。

 その意味では、公共の記憶に<わたし>を介在させるという手法を提示した『記憶のかたち』の阿部論文は興味深い(p.79、また、梅森論文の177頁以下も参照)。6月2日は横浜市の記念日であるという意味づけに対し、6月2日は私の誕生日でもあり、誰々にとっての記念日でもあり、、、、云々。そのような捉え方によって、歴史の意味づけに複数性をもたらすのである。だが、この方法によって公共の記憶が常に脱構築されるとは限られないし、そもそも、人間がこのような緊張を強いる作業に絶えるほど強いとは思えない。国民史の彼方に何があるのか? この問いについてはまだまだ考える必要があろう。

2000年5月10日記